2012年の原稿です。
現代朗読協会のイベント『キッズ・イン・ザ・ダーク』に行ってきた。「見てきた」のか「聞いてきた」のか難しい。あえて書くなら「感じてきた」ということだろう。黒衣の女性達(数名の男性もいた)が、朗読をするのだが、書かれている内容とは違う表現をしていく。もちろん、書かれた言葉、読んでいる言葉に左右されながらも、そのときある自分の存在を表現していくのだ。
その様は朗読をしながらのダンスのようであり、演劇のようであり、だけど朗読という不思議な状況が展開される。それでいて面白い。
たとえば、舞台の真ん中に背もたれのないひとつの椅子が置かれる。そこに朗読しながらひとりのひとが座る。しばらくすると、別のテキストを読みながら、別のひとが現れ、座っているひとを腰で押し出すように椅子の取り合いをする。これが何度か続くのだが、そこで気がつくことがある。椅子から押され演技のようにその場を退くひとと、あくまで座っていることに固執して頑張るひとでは声の質が変わる。はじめのうち、パターンのように何度か押されると退いていくひとは力を抜いて退いていくことが声でわかる。しばらくして座ったひとが、そこに座っていることに固執しだして居続けようとすると、そのような声になる。声に本人の「押し合うときの力み」が表現されてしまうのだ。だから、朗読している内容は聞こえなくなり、その状況で力んでいるその力み具合が伝わってくるようになる。
声はとても繊細である。普段はあまり意識しないが、いろんな情報が詰まっている。ヒーリング・ライティングをしたあとで、その文章を朗読してもらうときにそれがよくわかる。
本人はスラスラと文章を書くが、そこにはいろんな感情が隠されている。喜びは比較的書きやすい。しかし、悲しみや苦痛は書きにくいものだ。書く文章のなかに悲しみや苦痛を表現しなければならなくなるとき、多くの人はそれを言葉の裏に隠してしまう。簡単な言葉でやり過ごすのだ。しかし、朗読していくとそれは声に現れる。書いた文章を朗読してもらい、何かの感情が声に現れると、その部分を丁寧に書き直してもらうことがある。すると、そこからその人の隠した感情が吹き出すことがある。それがひとしきりすむとすっきりするのだ。それまで隠していた感情が解放されるので。
キッズ・イン・ザ・ダークでは朗読している内容とは別に、笑ったり、怒ったり、叫んだり、呻いたりすることで朗読者は感情を解放していく。それを見ている観客は、素直な感情の解放に立ち合い、自分の内側に眠っている感覚に対峙することになる。
素晴らしい現代芸術でした。